亀戸2丁目団地の横、横十間川の近くに、『亀戸銭座跡』のモニュメントがあるのをご存知でしょうか?
今回は『亀戸銭座跡』についてご紹介いたします。
亀戸銭座跡とは
平成6年3月設置
このモニュメントは、寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したものです。
レリーフには、「銭座絵巻」(享保13年(1728年))より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれています。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636年)に始まります。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されています。
寛文3年(1663年)から天和3年(1683年)まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地のある付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称しました。そこに、「亀戸銭座跡」の標柱が立っています。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのですが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれています。
亀戸銭座跡モニュメント|江東区より引用
横十間川など周囲の河川は、江戸時代には今の千葉県方面から塩や米などの物資を船で運ぶ輸送路として、また明治以降は、工場への資材や製品の輸送、木場への木材の輸送などに利用されてきました。
製造した銅貨を運搬しやすい、ということで亀戸に銭座を設けたのかもしれませんね。
なお、この付近の工事で地中を掘ると当時の銅貨が発掘されるようです。
残念ながら金貨のように高値では売れないそうです。
番外編:横十間川(よこじっけんがわ)
横十間川は、1659年に徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削されたものです。
江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことからとのこと。なるほど。
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